ヤングケアラーだった私が、あのころ本当にほしかったもの

学業を続けながら、働きながら、家では介護。その生活を続けてきた私が振り返る、「支援」という言葉より手前にあるものの話。

私は、いわゆるヤングケアラーでした。親が難病になり、学業を続けながら、のちには働きながら、家では介護をする生活。当時は「ヤングケアラー」という言葉を知らなかったので、自分の生活に名前があると知ったのは、ずいぶん後のことです。

最近はこの言葉も知られるようになって、支援の話も聞くようになりました。それ自体は、本当に良いことだと思います。そのうえで、当時の自分が何をほしかったかを、正直に振り返ってみます。

同情ではなくて

まず、ほしくなかったもののほうがはっきりしています。同情です。「大変ね」「かわいそうに」と言われるたびに、少しずつ話す気力が減っていきました。心配してくれているのは分かる。でも、同情は距離のある場所から降ってくるもので、受け取るたびに「自分は普通じゃないんだ」と確認させられる感じがありました。

だから、介護のことは話さなくなりました。同世代に話しても伝わらないし、場が重くなるだけ。孤独というのは、周りに人がいないことではなく、話せないことなんだと、あのころ覚えました。

ほしかったのは、たぶん三つ

ひとつめは、説明しなくても分かってくれる誰か。介護の説明から始めなくていい相手というのは、それだけで息がつけます。

ふたつめは、自分と同じような人が、どこかにいるという実感。会って話したいわけではないんです。ただ「この生活をしているのは自分だけじゃない」と知れるだけで、夜の感じ方が違ったはずです。

みっつめは、自分の生活を持っていい、という許可。介護のない時間に勉強をしたり、遊んだりすることに、うっすらとした罪悪感がありました。誰かに「それでいい」と言ってほしかった。

あのころの自分に渡すつもりで

いま私は、介護まわりの道具を作っています。CareQuest という記録アプリには「今日のともしび」という画面があって、今日どこかで介護を記録した人の気配だけが、匿名でそっと灯ります。会話はなし。説明もいらない。——ふたつめにほしかったものを、機能にしたつもりです。

「自分も休憩した」を記録するとポイントがつくのは、みっつめの「許可」のつもりです。

もしいま、介護と、学校や仕事を両立している人がこれを読んでいたら、ひとつだけ。あなたの生活は、あなたのものでいい。 介護をしていない時間に罪悪感はいりません。それと、ひとりで抱えなくていい窓口もあります。説明が面倒な日は、アプリの灯りだけでも見にきてください。

今日も、読んでくださってありがとうございます。